マリー アントワネット ブルー宝石の悲劇


マリー アントワネット ブルー宝石の悲劇

 

マリー アントワネット ブルー

政略結婚

1770年4月、オーストリアのウイーンから、340頭の馬に引かれた50台の豪華な馬車の行列がフランスに到着し、今をときめく、ハプスブルク家の王女マリーアントワネットが、フランス国王・ルイ15世の孫であるルイ・オーギュスト(16世)と結ばれることになります。

 

マリーアントワネットはオーストリア皇帝のフランツ1世とマリア・テレジアとの間の4番目の娘として、まだ14歳のマリーは、オーストリアとプロイセン、フランス、イギリスとの駆け引きのために政略結婚を仕組まれたのです。

 

そんな策略をよそに、マリーアントワネットはブロンドの髪に愛くるしいブルーの瞳と抜けるような白い肌で優雅な振る舞いで、フランス中の人々から熱狂的な歓迎を受けます。

 

次第に

それに引き換え、夫のルイは、ずんぐりした容姿で大食漢であり、いつも趣味の錠前作りに熱中している男だったので、次第にマリーアントワネットは、自身の欲求や楽しみをほかに求めるようになって、マリーは奔放な性格なので、しきたりにとらわれない振る舞いをして、賭博場や無礼講のパーティーを開いて朝まで騒ぐようになります。

 

そして、フランスでの国民人気もなくなっていき、政治にも口を出すようになり、急進派の政治家を憎しみ続けたりして、フランス大革命へとつながる一連の不祥事を引き起こす原因にもなっていき、やがて、時代が革命へと向かっていくと、浪費ばかりしているマリーに対して民衆は憎しみを持つようになります。

 

奔放

マリーアントワネットは宝石が大好きで、オーストリアから来るときにも、実家からたくさんの宝石を贈られていて、とくにダイヤと真珠がお気に入りでした。

 

「美しい宝石が買えないなら、何のためにフランス王妃になったのかしら」、彼女の考えは、国民のために尽くすのが王妃ではなく、自分自身が美しく着飾って、周りの注目を集めることが王妃だと思っているようで、さらに、宝石の好みが先代の王妃たちと違っていたので、王室宝飾品の多くが絶えず彼女の好みに合わせて繰り返し作り変えられてもいました。

 

マリーアントワネット ブルー

マリー アントワネット

それらとは別に、マリーが結婚するときに持参してきた5.4カラットのブルーのハートシェイプのダイヤモンドの指輪があります。

 

これは、マリーアントワネット個人の所有でしたので、国有宝飾品には含められていないもので、処刑される少し前に、この指輪を最も親しい腹心の公女であったルボミルスカに与えています。

 

ルボミルスカは、ポーランド人で、その娘が引き継いで所有していたのですが、何人かの手をへて1955年には、ヴェルサイユ宮殿で開催された”オーストリア皇女、フランス皇太子妃、王妃マリーアントワネット”と銘打たれた展覧会に出されたりして1967年”マリーアントワネット・ブルー”は、パリのパレ・ガリエラでヨーロッパのある個人に買われてます。

 

フランス革命

1789年7月、ついに革命の火ぶたが切られ、どしゃぶりの雨の中をパンにうえた6千人の庶民の女たちが、武器を携えてヴェルサイユに行使をしていきながら、同時に3万人の国民衛兵隊もヴェルサイユに進軍を始めます。

 

しかし、宮廷の人々が恐怖でパニックになる中で、マリーは冷静で、「人々が私の首を求めていることは知っています、けれどわたしは、死を恐れてはならないことを母から学んでおります」

 

そして、マリーは囚われの身となって裁判にかけられ、37歳、見事だったブロンドの髪は一夜にして白髪に変わり、やつれて、そう白な顔になったマリーは、しかし、すばらしい遺言を書いています。

 

「すべての敵が、わたしに加えた危害を許します、神よ、あなた方と永遠にお別れしなければならないとは、わたしの胸は引き裂かれそうです・・・・・」、かつて、マリーは馬車に乗り、結婚のときには人々の歓声に迎えられて通ったパリの街を、今は粗末な馬車に乗せられ、後ろ手に縛られて人々の罵声を浴びながら刑場に向かいます。

 

王妃としての成長

刑場には3万の兵が整列する中を、マリーは自分からギロチンの刃に向かって首を差し出しながら、この世の苦しみから別れを告げられるのを、むしろ喜んでいるかのように・・・。

 

そして、マリーアントワネットは、鉄格子の中に押し込められ、裁判に引きずり出され、ギロチンの露と消えるまでの間に、威厳に満ちた気高い王妃へと変貌していき、彼女の精神は、最後にこの不運によって鍛え上げられ、その悲劇に相応しい王妃へと成長したのです。

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