マレーネ ディートリッヒ 女性が憧れる女優
大好きな宝石
「宝石なんて自分で買うものじゃないわ。男性にプレゼントされるものよ」
これが、どちらかといえば昔も今も、ヨーロッパの女性の考え方であるようですが、今世紀初めのヨーロッパに、自分で選んだ宝石を自分の手で儲けた金で買っていたひとりの女性がいたのです。
その名はマレーネディートリッヒです。
彼女の愛した宝石のなかでも、特に有名なのが、パリのモーブッサンでオーダーした、エメラルドとダイヤのブレスレットで、37カラットもある上質なカボションカットのエメラルドの廻りを無数のダイヤやエメラルドが鏤められていて、この豪華なブレスレットはディートリッヒのお気に入りだったといいます。
女優として
ドイツ貴族出身のマレーネ・ディートリッヒは、1901年にベルリンで生まれ、23歳のときに映画関係者のルドルフ・ジーバーと結婚して、娘のマリアを産んだあと、いくつかの舞台を経て、アメリカに渡り、ゲイリー・クーパーと共演した、スタンバーグ監督の「モロッコ」でハリウッド・デビューします。
そのスタンバーグ監督のお気に入りとなったディートリッヒは何本もの作品に出演するようになりますが、周りのアシスタントからは皮肉っぽくこう言うものがいたのです。
「なるほど、見事な脚だね、しかし、女優には顔も必要でしょ?」
確かに、ディートリッヒのえらの張った顔は、いわゆる典型的な美人タイプではないかもしれません、本人も、「私はこれまで美人であったことは一度もない」と言っています。
だが、そのお世辞にも整っているとはいえない顔だちにスタンバーグ監督は新しい時代の美しさを発見し、それを磨き上げて、ひとつの美の典型に仕立て上げたのです。
大きく弧を描いた眉、物憂げで神秘的な瞳、こけた頬、薄い酷薄そうな唇、のちの100万ドルの脚と絶賛されることになる見事な脚線美、さらに、ディートリッヒの周囲には、常に超一流の男たちがいました。
作家のヘミングウエイ、レマルク、俳優のジャン・ギャバン、詩人のジャン・コクトー、監督のルキノ・ヴィスコンティ・・、いずれもディートリッヒとの関係を一度は噂された男たちです。
これら超一流の男性たちと、一歩も引けをとらずに渡り合うことができたディートリッヒは、彼女の女性として、人間としてのスケールがあればこそなのでしょう。
闘う女性
ドイツ女性でありながら、生涯にわたってヒトラーを敵にまわして闘い続けた女性、これが神秘の美女であるディートリッヒのもうひとつの顔であり、彼女はヒトラーの演説をアメリカへ行く船の上で聞いて、その後30年間はドイツに戻ろうとしませんでした。
そして、ドイツ国籍を捨ててアメリカ人になり、戦争になると志願して最前線の慰問をして歩き、アルジェリア、イタリア、ベルギー、フランスの危険な前線での慰問をしています。
彼女は戦地で歌い、死に行く兵士たちを励ましていて、そのときの1曲があまりにも有名な「リリー・マルレーン」です。
後に、ディートリッヒがドイツの地を踏んだのは、1960年に、反戦歌「リリー・マルレーン」を歌う歌手としてであり、70年の万博のときは日本でも歌い、70歳近かったが、いまだ衰えない美貌を前に往年のファンは熱狂します。
変わらぬ魅力
たいていの美人女優は、年をとるにつれて、それまでの美貌が衰えていくことは免れないと思いますが、ディートリッヒは77歳で出演した最後の映画のなかでさえ、妖艶なマダムを演じて人々を魅了しています。
デヴイッド・ボウイ主演の「ジャスト・ア・ジゴロ」のなかでジゴロクラブの女将として登場した粋な女性、新入りのジゴロであるボウイに「ウイットのない会話をするひとは嫌いよ」と言い、「いかが?」とドン・ペリニヨンをすすめます。
たったそれだけのシーンながら、黒いドレスの大胆なスリットから見事な脚をのぞかせた彼女は、せいぜい50歳前後の小粋な貴婦人にしか見えなかったのです。
人生と闘いながら、愛する祖国を敵にまわし続けたディートリッヒにとって闘うということは、自分自身を磨くひとつの手段としていったのかもしれません。