King of DIAMOND デ ビアス ダイヤモンド


デ ビアス ダイヤモンド業界の歴史

 

デビアス ダイヤ

1866年、南アフリカで最初に発見されたダイヤモンド、”ユーレカ”から30年以上経た1899年、ついにロスチャイルド資本の後ろ盾でデビアス社を設立したイギリス人のセシル・ローズは、南アフリカのダイヤモンド鉱山の大半を管理下に置くことに成功します。

 

危機

それから30年以上を経た1899年から始まる、ボーア人(オランダからアフリカに移民した人々)対イギリス人の第2次ボーア戦争を起こした時に、それに抵抗したセシル・ローズは、鉱山と住民が包囲されたキンバリーからボーア人の侵略を守り抜いたのですが、健康を悪化させてしまい、戦争が終る直前の1902年に亡くなります。

 

それから2年後の1905年に、デビアス王国を揺るがす出来事が起こります。

 

同じ南アフリカのプレトリアにある、プレミア鉱山で、それまでで史上最大の3106カラットもあるダイヤモンド原石「カリナン」が採掘されたのです。

 

それは、当時のデビアス社が所有する全鉱山の年間産出量と同じくらいに相当するものでした。

 

さらに、1908年、現在のナミビア(当時は南アフリカが併合していた)にあたるエリアに、新たなダイヤモンドラッシュが起こって活発になります。

 

それまで、デビアスは、ダイヤモンドの採掘量の大半を手中に収めていたのですが、これらの出来事でダイヤモンド採掘のシェアは半分以下にまで落ち込んでしまいます。

 

しかし、ロンドンのダイヤモンド商社に勤めていたアーネスト・オッペンハイマーが経営に参加することによって、デビアス社は再建を果たすことになります。

 

アーネストの手腕

彼はアフリカにある鉱床と、その事業者を調べ上げながら、1933年にアフリカのダイヤモンド生産者の大半を統括するダイヤモンド・コーポレーションをロンドンに設立し、デビアス社及び子会社で全世界の大部分のダイヤモンドを買収、選別してストックし、合理的に国際相場へ流通させるための、中央販売機構(CSO)を創設します。

 

また、南アフリカの各鉱床の現場においては、主要なダイヤモンド採掘業者から独占的な管理権を得るための交渉も行っています。

 

それはデビアス社の眼の届かないところで、新しい鉱床が発見されることは、以前のプレミア鉱山のように、デビアス社にとって重大な危機につながりかねないからです。

 

ダイヤモンドは永遠の輝き

アーネスト・オッペンハイマーによって立て直されたデビアス社は、1930年の世界恐慌のときにも、管理下にある評価の高いダイヤモンドを中心に市場に出さずにストックし続けて危機を乗り越えています。

 

それらの、彼の資金作りや取引の手腕は語り草になっていて、現在まで続くダイヤモンド業界のシステムの基礎を創り上げた、その貢献は今もなお高く評価されています。

 

そして、1957年にアーネスト・オッペンハイマーが亡くなると、息子であるハリー・オッペンハイマーが経営の実権を握ります。

 

ハリーは、商業広告に目をつけて、アメリカの広告会社であるエア社に以来して、一世を風靡することになる”ダイヤモンドは永遠の輝き”というキャッチフレーズを生み出すことになります。

 

さらに、その時代の著名な芸術家であるピカソやダリの作品を広告キャンペーンに起用して、ダイヤモンドのイメージを、芸術や創造性の分野にまで結びつけることにも成功したのです。

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