グレース ケリー モナコのシンデレラストーリー
シンデレラストーリー
グレース・ケリーは、ハリウッドの人気女優からモナコの国王にプロポーズされて結婚して本当の女王様になってしまった稀有の運を持ったシンデレラです。
フィラデルフィアで生まれ、スターを目指してニューヨークに出てきたのが18歳で、王妃になったのが26歳で、わずか数年の間に女優グレース・ケリーは、あらゆる女性が夢見るようなことをすべてわが手にしてしまったのです。
ところでモナコについてはご存知でしょうか、フランスの南のほうにあり、皇居の2倍しかない面積1.95平方kmの小さな国で、国民は観光とカジノの収入で潤い、税金をおさめる必要もないという夢のようなところです。
小さいとはいえ、ここモナコのグルマルディ王家はヨーロッパでも有数の歴史を持つ名家で、そのグルマルディ家のレーニエ3世国王と、映画スターのグレース・ケリーのロマンスは、現代版”シンデレラストーリー”として、世界中の女性にため息をつかせました。
出会い
グレース・ケリーとレーニエ大公の出会いはこうです。
「パリ・マッチ」誌の編集長が当時、その年のアカデミー賞をとったばかりのグレース・ケリーを、モナコのレーニエ大公に会わせるというカンヌ国際映画祭の特集記事の企画を考え出したのです。
魅惑のモナコ大公国を統治しているハンサムな独身大公と、美しいアメリカ女優との出会いは、ヨーロッパ中の注目の的になるに違いなしで、モナコがとても美しい国で独身の大公が評判のハンサムだという噂を知っていたグレースは、すぐにOKします。
カンヌから車で2時間してモナコ王宮に到着したグレースは大公にお目通りし、彼に王宮内や庭園を案内されてまわり、わずか2時間ほどだったが、後に、グレースケリーの友人のギャラントは「彼女はいままで誰にも見せたことのないような表情で大公を見つめていた」と述べています。
そして、ふたりは、周りのひとのことなど忘れてしまい、ふたりだけの世界に入り込んでしまったかのようだったという。
その後、ふたりはニューヨークでも会うようになり、大晦日にクラブで開いたパーティの席で、ついにレーニエは正式にプロポーズしたのです。
「あの宮殿は私ひとりには広すぎるんだよ、グレース・・・」
グレースの真っ白な肌がポーッと薔薇色に染まった。
デートを重ねるたびに、グレースのほうでも、いつしか自分の夫になるのはこの人しかいないと、心に決めるようになっていたのだ。
その恋の喜びに輝いていたグレースが、レーニエ大公から贈られた婚約指輪は、エメラルドカットのダイヤモンドです。
「普通のダイヤモンドはまるで冷たい氷のように見えるのに、このダイヤモンドには色がある」
と、見る人が言ったほどの見事な品だったのです。
結婚式
モナコ大公とグレース・ケリーの結婚式が行われた一週間は、モンテ・カルロはまさにお祭りでした。
集まった各国記者は約2000人になり、街頭は人で埋まり、夜空には花火が上がり、人々は夜を徹してフォークダンスを踊り続けます。
その最高潮のころ、王とグレースは王宮のバルコニーに姿を現して群衆の歓呼に応えたのです。
そして結婚式当日、華麗なサン・ニコラ大聖堂に着いた招待客たちが、次々と赤絨毯を敷き詰めた会談を上がっていき、両側には不動の姿勢をとった歩兵と衛兵が並びます。
招待客には、ファルーク前エジプト国王、ギリシャの大富豪オナシス、エヴァ・ガードナー、デビッド・ニーヴン夫妻や数十カ国の代表や王室メンバーがつぎつぎ大聖堂に入っていきました。
息を飲むように美しかったグレースは600人の招待客が席につくなか、父にエスコートされて現われます。
彼女のドレスは、デザイナーのヘレン・ローズの製作したなかで最も高価なドレスで、19世紀の薔薇の刺繍入りレースに、20メートルあまりのシルク・タフタと、100メートル近いシルク・ネットが使われていて、ベールには何千個もの真珠の縫い取りがあり、ドレスの下の3枚のペチコートには青いリボンが無数に飾られていたのです。
その後ろには、リボンで飾った3メートルものチュールを引きずり、エレガントなドレスのシルエットが、ほっそりした身体の線を美しく浮き上がらせていました。
それに対して、凛々しい軍服姿のレーニエは、肩に金色の肩章をして、胸にはおびただしい数の勲章をつけ、ななめに紅白の聖シャルルのサッシュをかけて登場したのです。
ふたりが司教の前にひざまずくと、ふたりにおごそかにこう語りかけます。
「汝はモナコ大公を夫とするや」はい、とグレース。
「汝はグレース・ケリーを妻とするや」はい、とモナコ大公。
「父と聖霊の御名において、ここにふたりを夫婦とする」と司教。
側面
この結婚には実利的な側面もありました。
モナコが観光とカジノで潤い、税金をおさめる必要がない、明るい太陽と地中海の国というのは表向きで、内情はカジノの実権はギリシャの海運王オナシスに握られ、その莫大な収入はモナコには入ってこないという状態だったのです。
しかし、レーニエとグレースの結婚のおかげで、アメリカからの観光客が飛躍的に増えてモナコの経済は目に見えて好転し、観光収入は5年前の2倍になり、観光客は年間100万人にのぼり、長期滞在する客も増えてきました。
彼らがカジノやホテルで莫大な金を落とすため、モナコは昔のようなヨーロッパで最もゴージャスなリゾートとして復活し、あのエルメスのケリーバッグの名前の由来も彼女が関係していました。
エピローグ
グレースが1982年に不運にも交通事故のため、53歳で命を落とすまで、26年間の王妃生活のあいだにグレースは愛するモナコ公国のために、さまざまな業績を上げました。
王子を産んで危機に瀕していたモナコの独立を確保し、さらにモナコを世界一豪奢なリゾートに変身させて小さな無名の公国をキラリと輝く宝石のように世界の人々にとって忘れられない存在にしてしまったのです。
グレース王妃自身は亡くなっても、世紀のシンデレラストーリーを地でいった彼女の思い出は今も少しも色褪せてはいません。
そして、グレースのダイヤモンドのように優美で清楚な姿は、私たちのなかで永遠に生き続けることでしょう。