ユーレカ 南アフリカの星 奇跡のダイヤモンド
ダイヤモンドとは認められなかった
1866年、南アフリカのオレンジ州を流れるオレンジ河の土手、ホープタウンの北東50kmで、農家の15歳のエラスムス・ヤコブズという少年が太陽の下に、ぴかっと光を放つ石を拾います。
日用品を扱う行商人のショーク・ヴァン・ニーカークは、かねてからその地域で採れる変わった色石に興味を持っていて、その少年の母親からひとつの石を、その辺のころがる石ころとしてもらうことになり、石はすぐに調べました。
ヴァン・ニーカークは、すでに南アフリカで経済的な地位のあるキッシュというユダヤ人に石の鑑定を依頼しますが、結果は、二束三文しか価格が付かずダイヤモンドとは認定されなかったのです。
ダイヤモンドと鑑定!
しかし、ヴァン・ニーカークは諦めません。
さらに何人かをたずね歩いて、問題の石を、グラハムタウンに住む医者であり、鉱物学者のW・ギボン・アサーストンの元に送り、アサーストンは、綿密に調べ上げた結果、翌年の1867年、次のような”運命の鑑定”を下します。
1)間違いなくダイヤモンドである。
2)重さは21.25カラット
3)価格は500ポンドに相当する
これを受けて、行商人のヴァン・ニーカークは英国人で当時の植民地知事のフィリップ・ウッドハウス卿に、アサーストンが値付けした価格の500ポンドで話をもちかけます。
知事は、以前にアムステルダムで研磨工をやっていたユダヤ人のルイス・モンドに確認の再鑑定を依頼して、やはりダイヤモンドという鑑定結果が示され、知事はヴァン・ニーカークの提示金額の500ポンドでその石を購入します。
そして、ダイヤモンド発見のニュースは1867年4月10日に公にされて、この最初の石はロンドンに送られて10.73カラットにカットされ、1867〜1868年のパリ万博でも展示されます。
この南アフリカのダイヤモンドの歴史を飾るこの石は”ユーレカ〔われ、発見せり(ギリシャ語)〕”と命名されましたが、パリ万博でのユーレカは特に大きな反響もなく、ピーター・ローカンなる人物に売却されます。
※運命の石”ユーレカ”は1866年からちょうど100年たった1966年に当時のデビアス社社長であったハリー・オッペンハイマーが購入し、現在は南アフリカ共和国キンバリーの金鉱博物館に展示されています。
第2の発見
当初”ユーレカ”にさほど関心が寄せられませんでした、それは「ぽつんと1個、発見された」のみで後が続かなかったからです。
その、ヤコブズ少年の話が忘れ去られようとした3年後の1869年、またもや南アフリカで第2の発見が偶然起こりました。
それは、ホープタウンのブーイという羊飼いが、オレンジ河の農場の近くで輝く石を拾い、その羊飼いも人づてに聞いてヴァン・ニーカークのところにその石を持って行きましたが、ユーレカの経験からすぐにダイヤモンドと判定し、ニーカークは尋ねました。
「この石をいくらで譲ってくれるのか」
羊飼いは答えます。
「あなたの思うとおりでいいです」
ニーカークは
「自分の持ち物すべてを提供する」
と即座に答えます。
その中身は羊500頭、牛10頭、馬1頭
翌日、羊飼いは買い手の寛大さに、うれしい戸惑いを隠しきれませんでした。
そして、ニーカークはそれをホープタウンのユダヤ人であるリリエンフェルト兄弟商会に売りにいきます。
「83.5カラットのダイヤモンド」と判定はくだされて、その83.5カラットにリリエンフェルト兄弟は11200ポンドを支払います。
彼らはそれをケープタウンの議会に持ち込んで、そして議事堂の中で、行政官のトップがテーブルの上に曰くつきの石を置いて高らかに宣言しました。
「紳士諸君、この石には南アフリカの明日がかかっている」
この原石もロンドンに送られ、加工の都合で重さをかなり減らし雫型にカットされ47.75カラットのスリムな石に変身して、最終的にはダッドレー卿に30000ポンドで売却されます。
※南アフリカで2番目に発見されたこのダイヤモンドは「南アフリカの星」として知られて、1974年のクリスティーズの競売で225000ポンドの値が付きました。
ただし、ダッドレー卿の購入価格から比較してインフレ率を入れて計算すると、残念ながら半分以下の価格にしかならなりませんでした。
ダイヤモンド・ラッシュ
ともあれ、”ユーレカ”と”南アフリカの星”という巨大な石によって、眠るように静かだった南アフリカの大地が、まさに、覚醒の時を迎えようとしていました。
ダイヤモンド・ラッシュの幕開けです。