アールヌーボーとサミュエルビングのお店とデザイン


アールヌーボー デザインの確立とサミュエルビング

 

アール、ヌーボー デザイン

ジャポニズムデザインの影響

時代を駆け巡ったアール・ヌーボーの成立には、日本美術の影響が最も大きな役割を果たしたことは定説になっていますが、もともと”アール・ヌーボー”とは、サミュエル・ビングのパリの店の名前でした。

 

一般に、アール・ヌーボーといえば、ヨーロッパ社会の近代化において日本の浮世絵なども影響を与えた、美術・芸術・建築・宝石ジュエリーなどのあらゆるデザインや思想にまでおよぶ、時代が求めた、とても大きなジェネレーションを指します。

 

そのビッグウエーブは逆輸入されて、日本にも黒田清輝や夏目漱石などの著名人によって取り入れられ、日本の近代的なデザインの原点にもなっていきました。

 

そして、アール・デコとして新たなデザイン造形思想へと続いていく、世界近代史の重要なターニングポイントのひとつです。

 

デザインを簡単な一言で表現すれば、アール・ヌーボーは曲線美であり、アール・デコは機能美で、前者が優雅なイメージであれば、後者は現代的でモダニズムなイメージです。

 

サミュエル・ビング

アール、ヌーボー デザイン

ビンセント・ヴァン・ゴッホが1888年の秋に、アルルから弟テオに書いた手紙の中に次のような一説があります。

 

「日本の美術を勉強すると、賢明な哲学的で、知恵の優れた人間を見いだす。日本人は、 たった一枚の草の葉の研究をして過ごすのだ。彼ら自身が花であるかのように、自然の中に生きている」。

 

この手紙はゴッホが、日本美術の精神をいかに良く理解していたかを示しています。

 

ゴッホは、パリ時代にビングの店の屋根裏で、「一万点もあった」という浮世絵絵画を勉強させてもらっています。

 

ゴッホは1886年にパリに来て、ビングに出会い、浮世絵を通して日本に熱烈な興味を持っていて、それは、弟のテオへ宛てた手紙の内容で明らかです。

 

アールヌーボーの時代において、サミュエル・ビングは、日本が江戸時代から開国後まだ30年程の、まだ良く知られていなかった当時、ヨーロッパにおいては日本美術の最も好い理解者であり、もっとも優れた紹介者でした。

 

サミュエル・ビングのプロフィールは、1838年2月26日にドイツのハンブルグに生まれ、焼き物工場などに勤めた後、33歳のときにパリに移住して、フランス国籍を取得して日本などから物品を輸入して販売する”アール・ヌーボー”という名の店を開きます。

 

1875年には日本に来日して美術品などを視察し、さらに事業の拡大に努めます。

 

時代の最先端であった万国博覧会

アール、ヌーボー デザイン

1878年のパリ万国博覧会においては、アメリカの銀細工師で、収集家でもあったエドワー ド・C・ムーアとサミュエル・ビングは出会い、そこでムーアは、万国博にアメリカを代表して自作を出品しており、その作品がゴ ールド・メダルを獲得しました。

 

サミュエル・ビングは後にこの作品について、

「装飾原理は、直接日本人から引き継いだものだ。
だが、 あらゆる要素は、新しい用途に極めて巧妙に移し変えられていて、それはもはや、オリ ジナルな発見に等しいものである」と評価しています。

 

このムーアが実はニューヨークのティファニー&カンパニーの宝石業を経営していたチャールズ・L・ティファニーの友人でした。

 

ティファニーはいうまでもなく、ティファニー・ガラスで有名なルイーズ・C・ティファニーの父親であり、このティファニー・ガラスがいわゆるアール・ヌーボーの一翼を担って、日本美術との関わりを深めていったのです。

 

アール・ヌーボーとは

19世紀のヨーロッパでは貴族社会が崩壊して、都市化や工業化が進みます。

 

そのような社会状況に対して、新しい造形を生み出すことが芸術家や美術家を含めた時代の流れでした。

 

例えば、ラスキンは、工業社会が生み出す醜悪な生活環境に抗議し、ゴシックの時代の伝統をよみがえらせようとしたり、W・モリスは家具や衣服など身の周りのデザインに関心を向け、また、19世紀後半は”万国博覧会の時代”でもあったので、パリやロンドンには世界中から物品や美術品など、あらゆるものが出品され、大きなジェネレーションとなっていったのです。

 

この新しいスタイルは、宝石商や著名な芸術家たちの考え方を根底から変え、宝石のセッティングからジュエリーそのものを芸術として捉えていくなど、新しいデザインを生み出していくことになります。

 

日本では、ジャポニズムとしてヨーロッパとの文化交流が盛んになり、1900年にパリ万国博覧会には多くの日本人が出かけて、その資料を持ち帰った黒田清輝や夏目漱石も大きな影響を受けています。

 

やや遅れて始まった日本のアール・ヌーボーですが、日本のモダンデザインの発祥の原点として重要な意味を持っています。

 

サミュエル・ビングのアール・ヌーボー

時代を駆け巡ったアール・ヌーボーの成立には、日本美術の影響が最も大きな役割を果たしたことは定説になっていますが、もともと”アール・ヌーボー”とは、ビングのパリの店の名前であり、一時は国内外に数店を持つまでになっています。

 

さらに、ビングは1888年から1891年の4月までの3年間に、「芸術的な日本(ル・ジャポン・ アルティスティック)」という月刊誌を発刊します。

 

それは、産業美術の未来について興味をいだいているすべての人々、いかなる分野を問わずに、製造業者であれ、広告業者であれ、その産業美術の生産に積極的に参加する人々を対象としていました。

 

そして、毎号にわたり、自身でも日本美術や日本文化に関するかなりの長文の論文を執筆してい ます。

 

このように、アール・ヌーボーという大きなジェネレーションの担い手のひとりであり、日本の文化を世界に知らしめる役割として、サミュエル・ビングの貢献はとても大きいものでした。

 

そして、その大きな転換期のなかで、日本美術もまた、とても重要な役割を担っていたのです。

 
















アール、ヌーボー デザイン


アール、ヌーボー デザイン



ページの先頭へ戻る